人と音色MAGAZINE
とっておきの愛

とっておきの愛

文:わたなべあこ

10月22日、土曜日。
私はこの日の目覚ましが鳴る時間を、いつもより二時間早い時間に設定していた。
ひときわ音楽祭という、名前をきいただけでウキウキするようなイベントに参戦するために、早起きをしたくて。

私の住んでいる大阪から、イベントの会場までは、電車で一時間ほどかかる。

そして私は、どんなに大切な用事がある日でも、必ずと言っていいほど寝坊する。寝坊をする上に、身支度も遅い。いつも通りの起床時間では、確実にイベントに間に合わないと思って、前日はいつもより早く布団に入った。
完璧だ。ここまでは完璧。予定通り。
だったはずなのだけど、眠って、次に目が覚めたら、いつも通りの時間だった。

大急ぎで用意を済ませて、小走りで駅へと向かう。会場は、神戸にある三宮プラッツという、街中の広場。

行きの電車の中では、ドキドキする気持ちを、胸のなかで静かにあたためながら、静かに、深く、大きく息をしていた。このドキドキは、イベントが楽しみな気持ちなのか、それとも人混みに行く前の緊張なのか、はたまた「今日はどんな1日になるだろう」という不安なのか。

よくわからないけれど、私はこういう気持ちをしっかりと感じられる移動時間が大好き。

鼓動が少しずつ速くなってくことに嬉しさを感じながら、朝、急いでつけたコンタクトは裏返しのまま。高めのテンションで到着した会場には、お腹が空くようないい匂いが漂う。小さなテントの下では、子どもたちが店番をしながら、楽しそうにカレーライスを売っていた。

金額は「800万円」と書かれていて、たまげたけれど、どうやら会計時に799万9200円も値引いてくれるらしい。そんなに値引きして大丈夫なのだろうかと心配になったけれど、ほっこりする。

匂いだけでなんとか腹を満たす方法はないかと考えながら、顔の知った方々に挨拶をして、ふと周りに目をやると、会場にはたくさんの人集りができていた。

私が出演するわけではないのに、まだ始まってすらいないのに、会場を見ているだけで、もう胸がいっぱいになる。同じイベントに興味を持って、ここで立ち止まっている人がたくさんいること。とっても嬉しい気持ち。

開演前から盛り上がっている会場の姿に、幸せを感じながら、私は「楽しむこと」と「感じること」の違いや、その「楽しむこと」と「感じること」は、人生において、どちらが先にあるものなのかと、ぼやっと考えていた。

そしたら、もう、あっという間に開演時間。
のんびりと始まった音楽祭のオープニングは、絵、物語、音楽がコラボしたコーナーから。

会場の後ろに貼っている大きな紙にスルスル、クルクルと絵を描かれているお二人×物語を朗読されている司会さん×ポロンポロンとキーボードを弾かれる奏者さん。誰に合わせるでも、誰がリードするのでもなく、三者が呼吸を合わせて作品をつくっている。

私は初っ端で気づいてしまった。

「楽しいから感じられるようになること」も「何かを感じられたから楽しい気持ちになること」も、世界にはたくさんあって、それに卵が先か鶏が先かなんて、つけようがないんだと。
「楽しめないから何も感じられない」なんてことはなくて、「感じられないから楽しめない」なんてこともきっとなくて。

「最近楽しくない」とか「何も感じなくなった」というのは、「楽しいと思える基準と、感じられる範囲」が、日毎にすこしずつ変化しているだけで、それはたぶん、新しい感情を開拓しようとするための「成長」とも言えるのだろうな。
オープニングをみながら、涙がこぼれそうになっていた。

最高の始まりだ。自分や、他人の在り方を、存分に感じられる、最高のスタート。私はもうこの時点で大満足。映画を一本観終わったような気分。

と思ったら。今度は、ズバババァァァァンとドラムの音が響き渡る。なんだこのカッコ良さは。
ドラムを叩いているのは、爽やかな青年。ビビり散らした。

ドラムの振動に感情が揺さぶられて、まるで心臓までもが、彼のリズムで刻まれているような。ステージに立つ彼は、人との心理的な距離を音楽で測っているというか。いや、私たちを引っ張ってくれるというか。

そんな初めての感覚に、からだがゾクゾク、こころがドクドクする。

このゾクゾクとドクドクは、言葉のずっと先にあるような。でも、言葉なんかよりもっと前から持っていたような。一言で表してしまうと、きっとこれは、感動。
大人になってからの経験で表すなら、親戚の子どもが生まれた日に、持ってる感情の全てが涙や笑顔と一緒にドバドバと溢れ出したときのような、そんな感覚に近いかも。ありとあらゆる感覚を洗い流して、リセットしてもらえたような気がした。

すごく見入ってしまって、逆に詳細も覚えていないほど。気がついたらドラマーの彼はステージから捌けていて、次の奏者であるピアニストがステージに立っていた。うすピンクのジャケットを羽織った小柄な男性が、タタンタタンと、気持ちよさそうに鍵盤を叩かれている。

さっきとは打って変わって、時間がゆっくりと流れているような気分になる演奏。心がふわふわする。
愛くるしいピアノの音が、彼の奏でる綺麗な一音一音に吸い込まれていく。音をコピーするだけではなく、そこに心を込めて、最大の心地よさを詰め込んで、表現すること。”演奏”という言葉は、この”表現”のことを指しているのだと気がついて、涙がジワリと瞳を潤す。

音楽って、こんなに無駄なく、こんなにストレートに、人の感情を表現してくれるものなんだな。
音楽ってなんて素晴らしい媒体なのだろう。

眠ってしまいそうなくらい心地のよいピアノの演奏が終わったら、続いてステージに上がってこられたのは、管楽器を演奏されている表情豊かなお兄さんたちのグループ。普段、管楽器を間近でみることがないので、なんだか新鮮な気分。
陽気な演奏に合わせて、みんなが立ち上がって踊り出す。会場にはホストとゲストの境目がなくなり、会場全体がステージになりながら、みんなのニコニコの笑顔が溢れている。この瞬間、会場は「自由」という一体感を帯びていた。

こんなに自由に、この場に「いること」を喜べることって、あるだろうか。泣いていても、笑っていても、ごはんを食べていても、絵を描いていてもいい。ステージに乗り込んで踊るのだって、大歓迎。私の心のなかでも、小人たちがワイワイ踊っている。

これぞ野外フェス!という感じ。楽しすぎる。
幸せ度数がMAXから振り切れた。

このThe・フェス感を纏ったまま、またまた次のグループへと、音楽祭は進んでいく。全く別のジャンルの音楽たちが、垣根なく自然に移り変わってくことに、なんだか不思議な気分になる。

「カッコイイ」「幸せ」「大好き」「すごい」「楽しい」

語彙がそれだけしかなくなってしまうほど、愛くるしくて、キラキラした音楽が紡がれていく。観覧席から少し離れて、会場全体の雰囲気もみてみようと思ったら、会場周りにはどこまでも人集りが続いていた。

このカップルらしき人たちは、これからデートにでも行くところなのか。この家族連れの4人は、どこかから帰る途中なのか。会場入り口に置いていたイベントのチラシを手にとって、会場とチラシを交互に見ているこの女性は、いまどんなことを感じているのか。

わからないけど、ここには確実に「なんだか、楽しそうだな」という人間の感情がたくさん集まっている。

私は、そのたくさんの感情の詳細を知ることはないのだけど、この音楽祭で涙を流している人が目の前にいて。すぐそこにいて。その涙の内訳だって、私はきっと一生知る日は来ないのだけど。

きっとみんなが最高潮の「生きている」を感じていたのだと思う。そんな観覧席の姿に、私もまた泣きそうになる。人間の、生々しくて、でもあたたかい、うまれたままの感情に呆気に取られながら、涙を堪えて会場周辺をぐるっと一周。

観覧席に戻ってきたら、ステージには、ノリノリでカホンを叩いている女の子と、キーボードを弾いている女性と、管楽器を吹いている男性が。思わず笑顔が溢れた。だって、カホンを叩いている女の子が、あまりにも全身で音を感じていたから。

リズムをとる手足だけでなく、時折カホンから浮いてしまうほどに体をピョコピョコさせながら、首をフリフリして、コロコロと表情を変えながら、私がこれまで生きてきた人生のなかで初めてみるくらい、すごくすごく音楽を楽しでいたから。

彼女の両隣で演奏されているお二人も、とっても楽しそうに、嬉しそうに、「音が楽しいこと」を余すことなく感じておられて、それが観覧席までまっすぐに伝わってきて、もうたまらない。
こんなふうに、音楽で”いのち”を感じる日がくるとは思わなかった。

(生きているなあ。)


そうして、笑顔の前後に隠れていた、どんな言葉にも当てはめることのできない、透明な涙がポロッと一粒流れたら。

今度は紙芝居コーナー。子どもたちに、トライアングルやマラカスなどの楽器を演奏してもらいながら、物語が進んでいくという。なんだか懐かしいにおいがした。子どもに戻った気分で「桃太郎」の物語に集中してみる。

大きな窓(紙芝居舞台)の中で、物語がどんどん進んでいることが、すごく不思議な感覚。この感覚はなんだろうと少し考えて、ハッとした。

私はいつもスマートフォンという小さな窓の中から、たくさんの情報を取り込んでいる。この小さな窓は、何をするにもとっても便利で、今や手放せない存在になりつつある。
あなたと私を結ぶ窓口にだってなっている。

だけど、その小さくて明るい窓の向こうに、たくさんの誰かの物語があるということを忘れかけていたのだ。窓の向こうにあるのは、知識や、意見や、感情だけじゃない。
この窓の向こう側には、紙芝居と同じように、たくさんの大切な大切な物語が、どこまでもずっと続いているんだ。

昔、飽きるほど読んだはずの桃太郎と、飽きることのない人生のこと。もっと、もっと、大切にしたい。これまで受け継がれてきた大切な物語も、これから知っていく新しい誰かの物語も。

ずっと堪えていた、控えめにしか流さなかった涙が「もうええじゃろ」と外へ出たがっている。涙を生産するスピードと、涙を消費するスピードが合わず、どんどん涙が押し出される。この紙芝居が終わったら、私が楽しみにしていた、子どもたちのバンド演奏があるのに。

きっと私は、そこでまた泣いてしまうのに。

私は、子どもたちが楽しそうにしている姿にめっぽう弱い。音楽祭を楽しみつつ、会場で待機している子どもたちをみているときから、実はずっと泣きそうだった。
そして案の定、子どもたちの登場と共に、私の視界は一気に歪んだ。

緊張の面持ちで楽器の前にスタンバイする彼女や、ニッコニコの笑顔で担当の楽器を手にした彼や、目立たないところで見守っている先生や、親御さんたちの姿。

「やってみる」「信じる」「見守る」
そういった、私がまだ触れたことのない勇気たち。

そのかたちが、目に見えない心の距離が、やわらかくて、あたたかくて、愛しくて。この場の空気を、音楽を、関係を、全身で感じている。すごく生きている。そんな子どもたちの姿にエネルギーを与えられた私も、いまここでしっかりと生きている。

悲しみも争いもない場所で生きていくことは困難だけど、こんなに幸せな空間が、こんなにも澄んだ綺麗な努力が、この世にはたくさんあるんだと、いや、ありふれているんだと知って、心のなかでボロボロ泣いた。
顔に出すのは、恥ずかしいのでね。心のなかだけで。

20分くらいの演奏だったかな。出番が終わって、捌けていく子どもたちを見送るときは「ありがとう」の気持ちを精一杯送った。

が。子どもたちも、楽しくてたまらなかったのか。なんと、次の出番の方たちの演奏が始まると、子どもたちが即興パーカッション隊として飛び入り参加していた。

ステージにいる全員が、それはそれは嬉しそうに、幸せそうに空気を感じている。それを眺めている観覧席のみんなも、とっても楽しそうに目線を送って。本当にぽかぽかしている。肌寒くなってきた秋の夕方だというのに、心もぽかぽか、体もぽかぽか。

こんなにあったかいと、冬の寒さが目立ってしまうかな。
でも、こんなにあったかいのだから、このぬくもりで、これから吹くどんなに冷たい北風だって凌げる気がするよ。

さて、楽しかった音楽祭も、そろそろおしまい。
最後は、なんと、ダンスパフォーマンス。

ステージの隅から隅まで、魂を込めて動き回っているダンサーに圧倒されながら、日が陰ってきた会場全体をそっと見回す。
最後の最後。会場はまた、リズムに乗って踊り出した。

ああ、名残惜しい。でも、きっとイベントが終わったって、私たちの物語は続いていく。
そりゃいつかは終わってしまう物語かもしれないけれど、終わりがあるから「感じること」に全力を尽くせて、それを語り継ぐことができるのだと思う。

これが物語の続き方で、これが世界の美しさなのだと思う。

私は今日、ここで奏でられた音楽や、目の前にいる大勢の人たちから、たくさんの感情を受け取った。いつかこの音楽祭を思い出したときに感じるであろう愛も、しっかりと胸のポッケに仕舞い込んだ。今日、ここに溢れていたのは、誰かが誰かに送ろうとした愛ではなくて、きっと、誰かがどこかに旅立たせようとした愛。

「誰が受け取ってもいいように。ほら、飛んでけ。」って。

てんとう虫が飛び立つ瞬間を見送る子どもみたいな気持ちで、愛をそっと空に浮かすように。

いつか私もそうやって、小さな愛をたくさん空に飛ばせるようになりたいな。だからそれまで、今日受け取った愛は、大切に大切にあたためておく。

次の物語を紡ぐとき
自分と、誰かと、目には見えない確かな愛を心から信じて、空に見送るその日まで。

文:わたなべあこ
2000年、大阪生まれ。4匹の猫、1匹の犬、1羽の鳥と、暮らしている。会話で表現するよりも、スマホやパソコンなどを使って文章にして伝える方が得意。今回はそれを活かして、「ひときわ音楽祭」のレポートエッセイを書くことに。

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